ここ数年くらいだろうか、自分にとって毒気が少なく楽しみやすいエンタメを見つけるのが難しくなってきた。
独りで自由なエンタメ
私にとっての”エンタメ”は「体力や気力をあまり使わずに、直感的、本能的な心地良さを与えてくれる楽しいもの」だ。
私は、自分以外誰もいないところで、一人で静かにゆっくりと過ごしながら楽しめるエンタメが好きだ。必然的に自宅になることが多い。
種類は、娯楽性を重視した「小説、漫画、映画、アニメ、音楽などの鑑賞作品」や、変化や作用を楽しめる「(ビデオ)ゲーム」であることがほとんど。
身体的に楽しむ「スポーツ」や、家の外に出る「行楽」や「観光」は苦手だ。クリエイティブな「工作・創作」は楽しさとおもしろさを兼ね備え達成感も高いが、相応に体力・気力・時間を消費するためしんどい。
平たく言えば、疲れた時の「癒やし」。現実から一時的に距離をとるための「幻想」とも言える。
大量で安価で利用しやすいが
世の中にはエンタメ作品が大量に出回っている。
「小説、漫画、映画、アニメ、音楽、ゲーム」は、比較的安価で入手でき、利用のハードルも低い。
しかし、大量で安価なエンタメは大衆受けを狙った成分・メッセージが含まれていることが多く、これに「毒」がある。
この毒を割り切って娯楽として楽しむのが難しくなってきた。
エンタメの毒
毒のないエンタメなんて存在しないのではないか?とも思う。
例えばアクションもの。私的復讐・独善かつ短絡な道徳・ナショナリズムなどをぶち上げて、やりたい放題の殺傷・破壊・残虐行為を正当化する。申し訳程度に弱者や愛玩物を救済してお茶を濁すのも定番だ。
コメディやコミカルなども厳しくなった。”笑い”の本質は、対象を嘲りや蔑みの対象として攻撃するものだ。役者・芸人・記号化された存在は道化を演じるか助長する扇動者として振る舞い、観客がそれに加担して笑う。屈託なく笑うことなどできない。
エンタメ世界に大量に持ち込まれたイデオロギーも毒気が強い。例えばポリコレやフェミニズムは、不公正な差別の是正ではなく、従来の不公正な差別を別の不公正な差別で塗り替えるかたちで実践される。個人を個別に評価できない処理能力不足という現実があるとはいえ、このやり方はえげつない。
……とかなんとか、いろいろ考えてしまう。
現実と幻想の割り切り
直感的・本能的に感じる「楽しい」は、生物の生存や繁殖にとって都合の良い「好ましいこと」に由来する。この「好ましい」には、非人間的(動物的)な攻撃性や残虐性などの毒が多分に含まれる。
現実に偏ると癒やされない。これは辛い。
幻想に偏ると非人間的になってしまう。これは恐ろしい。
エンタメを楽しむ際の割り切りが難しくなってきたのは、幻想と現実の結びつきをより意識して捉えるようになったからだと思う。
「毒」に目をつぶって、都合の良い「薬」だけを見るのは卑劣だ。でも、本当に追い込まれたらそうなっちゃいそうな気もする。
ここで取り上げる”エンタメ”だけに限らず、広い意味での”娯楽”にも同様に毒があると言えるだろう。
上手い割り切り、毒から薬を作り出す、癒やしを必要としない体制…、考えることは多そうだ。