
ネヴィル・シュートの長編小説『渚にて』の読書感想・紹介・レビュー記事です。
1964年、第三次世界大戦が勃発し、核兵器の応酬により北半球の国々は汚染され全滅した。ばら撒かれた放射能塵は大気に乗って南下し、戦火を免れた南半球をも飲み込んでいくのだった…。
作品情報
タイトル | 渚にて (邦副題:人類最後の日) (原題:On the Beach) |
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著者 | ネヴィル・シュート (英:Nevil Shute) |
初出 | 1957年 |
ページ数 | 480 (2009年 創元SF文庫版) |
キーワード | 長編小説、SF、終末、核戦争、放射能汚染、人生哲学 |
作品概要
『渚にて』は、イギリスの作家ネヴィル・シュートの長編小説。初出は1957年。
作品ジャンルは広義のSF。より細かいサブジャンルとしては、世界の終わりを描く”終末もの”となる。科学考証には重きが置かれおらず(特に2022年現在からすると)、SF成分は控えめ。
メインテーマは、物語の背景である核戦争(核兵器・放射線)の「恐怖」と、そこから生じる不可避の厄災”死”に対する「人生哲学(死生観)」の色合いが濃い。
あらすじ
1964年、ソ連とNATO諸国、そして中国が戦火を交える第三次世界大戦が勃発。
戦いは、数千の水爆やコバルト爆弾の応酬により短期間で終結する。しかし、放射能を帯びた塵が北半球を覆い、汚染された国々は次々と滅びていった。
そして、この塵は大気に乗って徐々に南下し、直接の戦火を免れた国々をも飲み込んでいった。
終戦からしばらくの後、オーストラリア南東部メルボルン。
すでに北半球との通信は途絶え、オーストラリアにも刻一刻と放射能塵が迫ってきていた。残された猶予はあと数ヶ月。
そんな折、オーストラリア海軍のピーター・ホームズ少佐は、メルボルンに避難しているアメリカ海軍の原子力潜水艦スコーピオンに連絡将校として乗り込むことを命じられる。
任務の内容は主に3つ。既に全滅したと思われるアメリカ本土から送られてくる不明瞭な通信の出処と生存者の確認。一部の地域では放射線量が予想より早く低下しているのではないか、という論説の確認。その他、連絡が途絶えた地域の視察。
スコーピオンでこれらを調査し、情報を持ち帰ることが使命とされた。
ピーターは円滑な任務遂行のため、出撃準備の期間中にスコーピオンの艦長ドワイト・タワーズ中佐を自宅に招き、親睦を図ろうとする。
ピーターの妻メアリーは、アメリカに家族を残したまま帰還できないタワーズ艦長の心情を慮り、農場の快活な娘モイラ・デイビッドソンも招待して場を和ませようと考える。
ホームズ家の赤ん坊ジェニファーも混じえた4人は、食事を味わい、お酒に酔いしれ、ボートで遊び、パーティに興じ、一時を楽しんだ。それぞれの思いを胸に抱えて。
残された社会は一応の安定を保ってはいたが、物資不足と絶望感が人々の心と生活に暗い影を落としていく。
ささやかな希望と人々の矜持を乗せて、スコーピオンは出港するのだった…。








お話は「もうほとんど打つ手なしです」な状況から始まり、人類最後の数ヶ月が描かれます。
コバルト爆弾は技術的には実在しうるようですけど、実用の困難さから実際には製造・保有している国や組織はないと考えられている模様。
作中に登場する潜水艦「スコーピオン」と「ソードフィッシュ」は実在した原潜です。
方向性
おもしろさ (知性・好奇心) | |
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たのしさ (直感・娯楽) | |
ふんいき (陰気⇔陽気) | |
よみやすさ (文体・構成) | |
よみごたえ (文量・濃さ) |
物語として描かれるのは、”最後の日”が来るまでの数ヶ月に渡る、主人公たちの”非日常的な日常生活”です。
不可避の死が間近に予見され迫ってくる状況、物資が徐々に枯渇していくことによる生活様式の変化、それらを踏まえた社会情勢、人々の最期などが描かれます。
最後にはちゃんと全員死んで、副題どおり「人類最後の日」が描かれます。SF要素やご都合主義的な展開による肩透かしはありません。
放射線障害の視覚描写は控えめで、グロい表現(生理的嫌悪・残虐)は特段ないです。全体的に上品。一方で、心理的な描写においては身につまされるものがあり、精神的に余裕がある時に読んだ方が良いかと思います。


”終末もの”らしく、全体的に陰鬱な雰囲気です。
読んでる最中は、これ以上ページを捲りたくない気持ち(登場人物たちの不幸な末路を知りたくない)と、展開と結末への好奇心(ダークサイド)がせめぎ合って、変な気分でした。
感想・考察


生殺しだけど面白い
読み進めるのが辛かったけど、一方で面白くもあった。
文面から読み取れる情報のその先にあるドワイトの、モイラの、ピーターの、メアリーの、オズボーンの、内々の無念さが、どんなものだったろうと想像すると非常に辛い😭😭😭
心情的には中盤あたりからいよいよしんどくなってきて、人思いに読み飛ばして落ちを読んでやろうかと思ったりもしたけど、持ち堪えて読み切った。読者も生殺しだよ。
序盤から描かれる諦観ムードは、死を免れないことを暗示していて、大局的な落ちは容易に汲み取れた。それで中だるみするかと思いきやそんなことはなく、理性の面では面白く読むことができた。
淡々と粛々と事態が進展していく中でも、小さいような大きいような変化とイベント、日常と非日常のコントラストがあったからだと思う。スペクタクルもどんでん返しもないけど、上手い書き方、よく出来た構成なんだろう。
- スコーピオンの航海
未知の領域となった危険地帯への冒険と先に逝った同胞たちの末路。スヴェンの選択。 - ドワイトとモイラの関係
貞操と純愛の間で揺れる! - 社会情勢の変化
事態の切迫の度合いによってどのように変わるか。 - 登場人物たちの最期
見届けなければ…。
狂気と正気
登場人物たちの狂気と正気の塩梅が印象に残った。
ホームズ夫妻は来ることのない来年を見据えて庭造りに精を出し、モイラとドワイトは待ち受ける天国でのやりとりに思いを馳せ、オズボーンはスピード狂となり刹那に生きた。
それぞれ頭が少しおかしくなっていたけれど、人間性が破局するほどではなく、絶妙なバランスで一定の正気を保っていた。最期には気丈に振る舞い、役目を果たし、尊厳を持って死と向き合った。
ほどほどな狂気を許容して柔軟に対応する方が、結果的に正気を保ちやすいのかもしれない。
エリザス・キューブラー・ロスの「死の受容過程」で考えると、物語の開始時点でピーターとドワイトは最終5段階の「受容」、モイラは第2段階「怒り」、メアリーは第1段階「否認」になるのだろうか。
メメント・モリ
物語の主題は、核戦争の恐怖よりも、人生哲学的な「死生観」の印象が強かった。
本作では放射能塵が「不可避の厄災」として描かれているが、これは老化というシステムで人の体に予め組込まれてもいる。
他国の核戦争のとばっちりで死ぬのは確かに不条理だが、死というのは平時にあっても概ね不条理なものだ。病気、事故、事件、大抵どれもそこに至る原因や過程は不条理だ。
人間性の理想から考えれば、そもそも「誕生」が不条理だし、他の生物の死で支えられる「生きる」という状態も不条理だ。その結末である「死」が不条理にならないとは考えにくい。
「メメント・モリ(死を忘れるな)」は、自分の中では「不条理を忘れるな」に変換される。不条理を前述した”狂気”は、不条理を埋め合わせるためにも必要なのかも。
夢想社会
登場人物が、皆やけに好人物として描かれているのに違和感を覚えた。
作品が発表された1957年という時代の潮流、オーストラリアという舞台を考慮すると、背景に残虐な一面が悪びれることなく潜んでいる可能性も否定できない。
死の宣告を受けた社会が、最後まで一応の平静を保っていたことにも、やはり違和感を覚えた。
2022年現在の日本社会(に限らず全世界)が作中同様の災厄に見舞われたら大荒れだろう。社会を構成する人民一人一人の人間性で自然に良識的な社会秩序が維持されるなんて夢物語だ。
秩序が一瞬で崩壊するか、武力による極端な弾圧が行われるか…。少なくとも、時の為政者が、安楽死薬を一般配布するような品性や善性を発揮することはないと思う。不信は深い。
まとめ
胸が締め付けられるような辛さや怖さと、多様な連想を引き出してくれる作品で面白かったです。
喜々として楽しめるタイプの作品ではありませんが、静かな恐怖と感動を湛えています。しっぽりと落ち着いた物語を読みたい時に良いかと思います。
新旧版
新版
2009年の新訳版。現代的な表現で読みやすくなっています。訳は佐藤龍雄。
旧版
- 渚にて – 国立国会図書館デジタルコレクション
1958年、木下秀夫 訳、文芸春秋新社 - 渚にて:人類最後の日 – 国立国会図書館デジタルコレクション
1965年、井上勇 訳、東京創元社
旧訳版の2つは、国立国会図書館デジタルコレクションのデジタル化資料送信サービスで読むこともできます。
1958年版は、原作から150ページほど削られた抄訳版。表現は時代を感じさせるかなり古めかしいものでした。
1965年版の方は全訳版。こちらも味のある表現ですが幾分読みやすいかと思います。